平成幕末史

平成の坂本龍馬 徒然ブログ

現代文のネガティブなプロセス

現代文は二つのプロセスからなっており、試験で点数を取るためにもっとも本質的なプロセスとは設問の構造を見抜くことであり、設問を作った者の欲望、すなわち「問題作成者は自分に何を言わせたいのか」を見抜くことであり、選択肢を読解することである。間違いなく現代文とは、他者に対する応答の練習であり、応答は他者が望むことを、<常識の範疇で>、推察できなければならない。この<常識>というものが曲者なのだと、訳知り顔で物申す者もいるが、これに関しては単純である。<常識>とは各大学が指定する所のものである。「うちの大学に入りたいならば、この程度は」という、その程度が<常識>である。従ってそれは唯一のものではありえない。さてそうすると現代文の究極とは、各大学の求める<常識>を推察するゲームということになる。後は簡単なもので、推察に基づき、一定のパターンで応答すれば良いのだ。そういうわけで現代文のいかなる勉強も、このプロセスに繋がり、このプロセスを進む訓練とならなければならない。
  
現代文にはもう一つプロセスがあると言った。それは本文を読解することである。私たちが要求されていることが、本文の味読や、感想文を書くことではない以上、私たちにとって本文とは至高のレファレンスというようなものではありえない。本文はネタであり、たたき台に過ぎないのだ。にも関わらず本文を私たちは良く読めるようになっておく必要があるのは、もちろん設問に答えるためだ。何を当たり前のことをと思うだろうが、この論理は決して反転させてはならない。本文が先なのではない、問が先なのだ。繰り返すが、私たちがもし点数を取ろうとするならば、設問を解かねばならないからであり、それ以上でも以下でもないからだ。
 
本文の読解を金科玉条のように崇めるのは、間違いである。このようなことを主張する者は、パースペティクビズムを悪い意味で軽視してるのだ。各命題の意味はそれを提示するものの視点に制約されている、というのがパースペクティビズムだが、平たく言えば、どんな主張や読解もそれをするものの立場によって意味が異なるということだ。哲学者気取りの先生は言うかもしれない、そう、現代文に真なる答えはない、なぜなら一切は相対的だからだ。パースペティクビズムを悪い意味で軽視する者はこの反対であり、同根である以上、同じく間違っている=現代文を解くことが不可能である。この立場の人間は当然のことながら絶対的な読解、唯一にして普遍的な意味作用を想定することになるからだ。もしこようなことが可能であるならば、現代文とは正しく理性を使う訓練ということになる。お題目は結構だが、明らかに彼らの愛する<本文>の内容(概ねフランス現代思想といわれる一群の思想の薫陶を受けている著者の主張)が彼らの主張を支持しないだろう。そうではなく、私たちはパースペティクビズムを引き受けつつ、次のように考えるべきだ。<本文の意味>を支えるのは、設問作成者の欲望だと。
 
では、テキストの読解はネガティブなものだという前提の上で話を進めよう。本文をいかにして読めるようにするか?