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平成幕末史

平成の坂本龍馬 徒然ブログ

哲学的思考プログラム

イエスキリストもいうように、気合と人間愛。
ちょっとわからないでしょうけど、哲学的思考のプログラムを。
 
若きヘーゲルは愛による世界との和解を考えていました。この愛の運動を弁証法止揚という。
即自的en-sichには衝突し、理解することができない自己意識同士が、他者と自己の対他的fur-andereな在り方の必要性を理解する=対自化fur-sichすることで、和解が成立する。この動きを弁証法Dialetikといい、イエスの登場も弁証法的な歴史観のなかで整理されるわけなんだな。若きヘーゲルの美しき傑作『キリスト教の精神とその運命』と『精神現象学』を読みましょう。他者を赦し、他者を受け入れるとは何を意味し、それが自己の組成とどう絡み合っているのかが、永遠に語られます。ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法については、アレキサンドル・コジェーブの精神現象学の講義録を読みましょう。
 
人は人を赦しえるのか?『嫌われ松子の一生』という映画の中で、嶋田久作扮する神父が、「赦されざる者を赦し、愛する、それが神の愛です。あなたは敵を赦すことができますか?出来ないでしょう。それでよいのです。しかし神にすがるならば、それが出来るのです。」
 
こうしたキリスト教ヘーゲル的な「愛による赦し」を媒介するものとは、弁証法のモメントとなるものは、神であり、少なくとも神的な何かだろう。ドストエフスキーが『悪霊』のなかで、怒りをまき散らしているのは、まさにこの文脈に対してである。
 
赦すだって?どうして赦されることがあるのか、神が赦すことが赦されない苦悩があるのだ。神の赦しが決して止揚しない悲しみ、ここにこだわる時、メランコリーという問題圏に接近する。これに関しては、フロイトクリステヴァの『黒い太陽』を読まねばならない。
 
赦そう、何もわからなくても。