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平成幕末史

平成の坂本龍馬 徒然ブログ

健やかなアナーキズム

アナーキーとはan-archyのこと。無政府主義などと訳される。anは欠如を示し、archyは、カタカナではアルケーであり、ギリシア語で、始源や起源、根源、そして権力や政府を意味することになる。ヒエラルキーhierarchyといえば、階級制度を意味する。
 
始源から権力へ、既にここには論理の飛躍が見られる。アルケーarchyの対義語はテロスtelosである。テロスは終末、終焉、目的、(物の目的的な)完成を意味する。アルケーは「はじまり」であり、テロスは「おわり」を意味した。タレスはアルケーとは水であると、ヘラクレイトスはアルケーとは火であると、ピュタゴラスはアルケーとは数であるといった。タレスにとって万物は水から始まるのだ。ピュタゴラスにとって根源は数である。しかし始源という意味でのアルケーが、どうして権力や政府を意味することになるなるのか?
 
ここで語源学etymologyをやろうというのではない。しかし権力というものが、常に始源としてのarchyを欲望してきたのは事実であろう。一切の権力を拒否すべきだとは思わない。現実的にそれは不可能であろう。しかし権力に起源としてのarchyを措定しないことだ。「はじまり」であるarchyを自らに措定するような権力を選ばないことだ。
 
なぜならその時、権力は他の源archyを必ず排除するように動くからだ。ナチズムの権力は、自らにアーリア人というarchyを与えた。そして、さざれ石を巌とする過程で、ユダヤ人がスケープゴートとして、排除された。権力が血や地といったarchyと一体化するとき、権力の保存は自らの固有化を伴い、血の純粋化という仕方で他者の排除に必ず向かう。
 
日本は、nationを国-家とする。権力と血が一体化し、権力の正当性が血として語られる危険は常にあるということだ。日本という国では、「日本」というものが国民の家として語られる以上、権力は御家の問題として、血統の問題として語られる危険が常にある。