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平成幕末史

平成の坂本龍馬 徒然ブログ

心の不可視性

病院で、腹が痛いと言ったとしよう。究極の分析装置で調べたところ、「あなたの腹に痛みの原因はない。」という医者の発言を引き受けたとしても、「あなたが痛みを感じている事実はない」という発言を私たちは許さない。<心>は、不可視であり、どのような科学的観察も、<心>の深部には届かない。あるいは少なくとも私たちは他者の観察を否定できると思っている、もしそれが自分の<心>であるならば。したがって、医者がもし「あなたが痛いというのは嘘だ、なぜなら痛みの原因は存在しないからだ」と言っても、「痛みの因果関係が不明であるとしても、痛みは存在する」、「私が痛むと言ったら、痛むのだ」と言いうるし、それが<心>と私の関係である。私とは<心>の特権的な観察者なのだ。<心>は私にしかわからない、と私たちは思いこんでいるし、そのような信念によって防衛的に振る舞ってもいる。もし<心>が可視的であったならば、電車に乗ることもできないだろう、私たちの心理をばらまくことになるかもしれないのだから。
 
恋愛の場面を考えてみよう。「あの時、私のことを好きだって言ったじゃない」という発言に対して、「いや、あれは嘘だった」と私たちは言える。これは過去の心理的事実の否定である。また嘘と知りながら「心から君のことが好きだ」とも言える。これは現在の心理的事実を偽っている。確かに<心>は可視的にもなるが、それはあくまで主体が望めばであり、<心>は常に氷山のように<私>の内奥に沈んだ部分を残しており、誰かの手をつかむようには、つかみきることはできない。つまり<心>は、やはり不可視であり、その特権的な理解者は、内観的自己としての唯一の<私>なのか?
 
しかしまた、実はこの<心>の内観や反省は<私>にもよく出来ないことがあるほど、<心>の闇は深いものとされる。私たちがもし自分の<心>を十分完全に知っていたり理解できるならば、世界のあやまちの半分以上は消滅するかもしれないが、恐らく<心>の可視性は可能性でなければならないのであって、現実的に実現してはならないのだ。ある精神医学の症例研究で、自分の研究論文の誰かに常に盗まれていると主張する主体の症例があった。思考が剽窃されるのは、<心>としての思考が、言語によってのみ、表現されるからだが、言語とは身体と同じく物理的客観である。隣の部屋の住人は壁を隔てているだけだから、私の部屋の内部の状況を知りうる。私の<心>がもし言語の壁を隔てただけで他者の<心>と隣接しているのならば、私にしか見えないが、言語によって可視化されてしまう私の<心>は、同じように他者に漏れてしまうかもしれないだろう。そうするとこうなる、<心>は究極的に不可視であるか、言語が不完全であるか反省が十全に透徹したものとならないが故に<心>は不可視とならざるを得ない、と。言語が完全なものだというのは、医者の例で言えば、究極の分析装置を認めることになり、そうすると<私>にしか知りえないはずの痛みについて、他者は知る権利を持ち得ることになってしまう。これはおぞましい事態となるだろう。
 
私と他者を隔てるものは何であろうか?<心>以外にないだろう。その<心>が言語によって可視化されるものならば、私と他者の区別は現実的な区別となる。それは部屋の壁や、着ている服、あの人と私までの物理的な距離、曖昧な言葉や沈黙に過ぎないだろう。それらは踏破可能なものであろう。<心>の処遇は、私たちの都合で決まっているようだ。不可視であったり、可視的であったり。パスカルはかつて言った、「人間はこの上なく狂っている」と。
 
自己と他者の区別は、<心>の不可視性に基づいているのではないかと思う。すると、アイデンティティ=自他の差異は不可視であり、客観的実在ではないということになる。恐らくこれが私たちの日常の感覚にもっとも近い考えではないないだろうか。しかし、私たちはまた<心>は、私が望むならばその分だけ可視的になりうるとも考えている。フロイトならばナルシシズムというであろう自我の傲慢さであるが、コミュニケーションにおいては確かに心は可視的にならねばならないだろう。他者に心を込めて丁寧に話をするならば、私たちの<心>は他者にとって可視的なものとなる、そのように信じて私たちがコミュニケーションにのぞんでいるということもまた確かだ。
 
逆説的だが、心の不可視性以外に他者と自己を区別するものはないが、一方で心が可視的となりうるという可能性を元手にコミュニケーションはなされるしかない。