平成幕末史

平成の坂本龍馬 徒然ブログ

2012/3/14 国家斉唱

大阪の府立和泉高校で、3/2の卒業式での国家斉唱の際に、「中原徹校長が教頭らに指示して、約60人の教職員が国歌斉唱時に起立しているかだけでなく、歌っているかについて口の動きを確認した」らしい。
 
校長と教頭の「確認」の結果、「口が動いていなかった」3人の内、実際に歌っていなかったことを認めた1人は懲戒処罰されることになるだろう。大阪府では2月末までにあった卒業式で「起立しなかった」教師17人が戒告となっているようだ。
 
教師たちがこうした不斉唱、不起立によって処分された例はいくつもある、そして今回も恐らく処分される、「職務命令違反」である。職場の上長(この場合校長や教育委員会)の職務命令に背く行為であるが故に、彼らは処罰されている。国歌の起立・斉唱は、思想の自由を保証する憲法19条には反しない、既にそういう最高裁による判決も出ている。職場の命令・規律違反であるかどうかで戒告ということだ。
 
君が代』の「君」とは天皇のことである。
天皇は(大日本帝国を統治していた王であったが)現在は日本という国家の象徴である。天皇を敬う歌を歌うことで、②国家を愛する気持ちを養成する。というのが『君が代』を歌えという人たちの大筋の考えであろう。石原慎太郎は『君が代』でなくともよい、代わりの国歌を歌えばいいと考えているらしい。この場合には①の論点は落ちて、②のナショナリズム国家主義)を強化・養成するというのが主眼となる。
 
私の考えを述べておく。国家は私の家ではない。したがって私が自分の親や家族や友人を愛するのと同じように、天皇や国家を愛すべき理由はない。私は京都という街が好きだ。渋谷や下北沢、御茶ノ水、沖縄が好きなのと同じだ。京都という現象は他国にはない独特の現象で、その意味で日本的かもしれないが、日本とは地理的な総体を呼ぶさいの便宜的な総称的な呼称以上のものではない。国家は私とは何の内的関係もない。したがって国家を愛してはいないのは、国家など私の精神生活にとって無であるから。私が平和に自由に友愛を発揮したり享受したりするのに、国家は関係しない。だから国家への愛も、憎しみもない。だから国を国家と呼ぶのも嫌である。
 
だから、国家への忠誠や尊重がなければ、精神・物質両面で発展しないという理屈がまったく理解できない。私はある人物と今日、大学院での数学の勉強について話し合った。彼が数学を一生懸命勉強するかどうかということと国家は関係がないと私は思っている。私も英語の勉強をしたり、しなかったりする。もっと勉強しなくちゃなと毎日思う。しかし国家のことは全く考えないし、国家主義を持つと勉強する意欲が湧くとも思わない。国家などというものは、ビジネスライクに考え、企業のようなものだと思えばいい。そこで働く人がいて、それが政治家で、その企業が発行する株を買っているだけで、別の株を買いたいなら、他国にいけばいい。国は金を徴収する。私は金を払う。その代わりに私は保障を受ける。以上だ。
 
国家への忠誠を誓えというのは、支配者になりたがる人とそれに追従したい人の理屈としか、考えられない。従って私にとって国民意識を涵養する必要がそもそもないので、国旗掲揚する意味も、国歌を斉唱する意味もない。無意味なものを強制されるのはもちろん迷惑である。