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平成幕末史

平成の坂本龍馬 徒然ブログ

とりあえず映画のススメ


☆クロード・ルルジュ『愛と哀しみのボレロ
(人生の全てとはこういうものかと。『男と女』を撮った監督が映すジョルジュ・ドンの稀代のダンスは見どころ。本気でバレエを始めようかと思った。)

アンドリュー・ニコルガタカ
(近未来の遺伝子操作による管理社会の決定論的な人生への抵抗。《生》の可能性への勇気が湧く。)

マイケル・マンコラテラル』『マイアミバイス』
(とにかくロスアンゼルスの夜の撮り方がたまらない。ロスにいったことはないが。ハードボイルド。)

☆ジャック・オディアール『リードマイリップス』
(仏語原題はSur Mes Levres、訳せば「唇の上で」。ブスと荒くれ者という取り合わせ。触れ合あえないのに、性的。たまらん。フランス映画万歳。)

ステファン・エリオット『氷の接吻』
ユアン・マクレガーアシュレー・ジャドのスター競演。精神分析的にめちゃくちゃ興味深い。喪われた父‐娘関係のトラウマの転移と反復強迫が基本的な筋。そこが見えないと楽しめない。原作はMORTELLE RANDONNEE『死への逃避行』で、その仏語版の映画もある。こちらがもともとのもので、イザベル・アジャーニが主演し、話題になった。ただし『氷の接吻』の方が圧倒的に完成度は高く、芸術点も深い。氷の接吻という邦題はダサイが。ハリウッド版の原題はEye of the Beholder。)

中島哲也嫌われ松子の一生
(松子は神です。私たち貧しく哀れな者の神です。愛したいのに愛せない《生》への至高の賛歌。全員で歌われる挿入歌の「曲げて伸ばして」bend and stretchは、いつまでも心に残る。中谷美紀瑛太も良い演技。)

青山真治ユリイカ
(天才)

新藤兼人『生きたい』
三國連太郎の奇才ぶりは必見。痴呆になって、ウンコ漏らして、うつ病の娘に背負ってもらって、そうやって俺たちは生きるんだ。自殺した作家の江藤淳脳梗塞で自分でしょんべんもできなくなって、「侍として死にたい」とかのたまって、風呂に顔を浸けて死にました。侍なんてやめましょうねえ。)

ヴィム・ヴェンダース『ベルリン天使の詩』『ランドオブプレンティ』
(映画界で今一番思考している人じゃないかな。『ベルリン』は柄谷行人がなんかの文庫本の後書きで、この映画の他人の苦悩を聞くそのやり方は人間的には可能ではないとコメントしていたという記憶があるが、それは批判にはならんでしょう。『ランドオブ~』は911以後のアメリカ社会の強迫観念をシリアスに、徹底的にシリアスに、それが故にコミカルに描く。他に『パリ・テキサス』もいい。)

現代文のネガティブなプロセス

現代文は二つのプロセスからなっており、試験で点数を取るためにもっとも本質的なプロセスとは設問の構造を見抜くことであり、設問を作った者の欲望、すなわち「問題作成者は自分に何を言わせたいのか」を見抜くことであり、選択肢を読解することである。間違いなく現代文とは、他者に対する応答の練習であり、応答は他者が望むことを、<常識の範疇で>、推察できなければならない。この<常識>というものが曲者なのだと、訳知り顔で物申す者もいるが、これに関しては単純である。<常識>とは各大学が指定する所のものである。「うちの大学に入りたいならば、この程度は」という、その程度が<常識>である。従ってそれは唯一のものではありえない。さてそうすると現代文の究極とは、各大学の求める<常識>を推察するゲームということになる。後は簡単なもので、推察に基づき、一定のパターンで応答すれば良いのだ。そういうわけで現代文のいかなる勉強も、このプロセスに繋がり、このプロセスを進む訓練とならなければならない。
  
現代文にはもう一つプロセスがあると言った。それは本文を読解することである。私たちが要求されていることが、本文の味読や、感想文を書くことではない以上、私たちにとって本文とは至高のレファレンスというようなものではありえない。本文はネタであり、たたき台に過ぎないのだ。にも関わらず本文を私たちは良く読めるようになっておく必要があるのは、もちろん設問に答えるためだ。何を当たり前のことをと思うだろうが、この論理は決して反転させてはならない。本文が先なのではない、問が先なのだ。繰り返すが、私たちがもし点数を取ろうとするならば、設問を解かねばならないからであり、それ以上でも以下でもないからだ。
 
本文の読解を金科玉条のように崇めるのは、間違いである。このようなことを主張する者は、パースペティクビズムを悪い意味で軽視してるのだ。各命題の意味はそれを提示するものの視点に制約されている、というのがパースペクティビズムだが、平たく言えば、どんな主張や読解もそれをするものの立場によって意味が異なるということだ。哲学者気取りの先生は言うかもしれない、そう、現代文に真なる答えはない、なぜなら一切は相対的だからだ。パースペティクビズムを悪い意味で軽視する者はこの反対であり、同根である以上、同じく間違っている=現代文を解くことが不可能である。この立場の人間は当然のことながら絶対的な読解、唯一にして普遍的な意味作用を想定することになるからだ。もしこようなことが可能であるならば、現代文とは正しく理性を使う訓練ということになる。お題目は結構だが、明らかに彼らの愛する<本文>の内容(概ねフランス現代思想といわれる一群の思想の薫陶を受けている著者の主張)が彼らの主張を支持しないだろう。そうではなく、私たちはパースペティクビズムを引き受けつつ、次のように考えるべきだ。<本文の意味>を支えるのは、設問作成者の欲望だと。
 
では、テキストの読解はネガティブなものだという前提の上で話を進めよう。本文をいかにして読めるようにするか?

哲学的思考プログラム

イエスキリストもいうように、気合と人間愛。
ちょっとわからないでしょうけど、哲学的思考のプログラムを。
 
若きヘーゲルは愛による世界との和解を考えていました。この愛の運動を弁証法止揚という。
即自的en-sichには衝突し、理解することができない自己意識同士が、他者と自己の対他的fur-andereな在り方の必要性を理解する=対自化fur-sichすることで、和解が成立する。この動きを弁証法Dialetikといい、イエスの登場も弁証法的な歴史観のなかで整理されるわけなんだな。若きヘーゲルの美しき傑作『キリスト教の精神とその運命』と『精神現象学』を読みましょう。他者を赦し、他者を受け入れるとは何を意味し、それが自己の組成とどう絡み合っているのかが、永遠に語られます。ヘーゲルの主人と奴隷の弁証法については、アレキサンドル・コジェーブの精神現象学の講義録を読みましょう。
 
人は人を赦しえるのか?『嫌われ松子の一生』という映画の中で、嶋田久作扮する神父が、「赦されざる者を赦し、愛する、それが神の愛です。あなたは敵を赦すことができますか?出来ないでしょう。それでよいのです。しかし神にすがるならば、それが出来るのです。」
 
こうしたキリスト教ヘーゲル的な「愛による赦し」を媒介するものとは、弁証法のモメントとなるものは、神であり、少なくとも神的な何かだろう。ドストエフスキーが『悪霊』のなかで、怒りをまき散らしているのは、まさにこの文脈に対してである。
 
赦すだって?どうして赦されることがあるのか、神が赦すことが赦されない苦悩があるのだ。神の赦しが決して止揚しない悲しみ、ここにこだわる時、メランコリーという問題圏に接近する。これに関しては、フロイトクリステヴァの『黒い太陽』を読まねばならない。
 
赦そう、何もわからなくても。

健やかなアナーキズム

アナーキーとはan-archyのこと。無政府主義などと訳される。anは欠如を示し、archyは、カタカナではアルケーであり、ギリシア語で、始源や起源、根源、そして権力や政府を意味することになる。ヒエラルキーhierarchyといえば、階級制度を意味する。
 
始源から権力へ、既にここには論理の飛躍が見られる。アルケーarchyの対義語はテロスtelosである。テロスは終末、終焉、目的、(物の目的的な)完成を意味する。アルケーは「はじまり」であり、テロスは「おわり」を意味した。タレスはアルケーとは水であると、ヘラクレイトスはアルケーとは火であると、ピュタゴラスはアルケーとは数であるといった。タレスにとって万物は水から始まるのだ。ピュタゴラスにとって根源は数である。しかし始源という意味でのアルケーが、どうして権力や政府を意味することになるなるのか?
 
ここで語源学etymologyをやろうというのではない。しかし権力というものが、常に始源としてのarchyを欲望してきたのは事実であろう。一切の権力を拒否すべきだとは思わない。現実的にそれは不可能であろう。しかし権力に起源としてのarchyを措定しないことだ。「はじまり」であるarchyを自らに措定するような権力を選ばないことだ。
 
なぜならその時、権力は他の源archyを必ず排除するように動くからだ。ナチズムの権力は、自らにアーリア人というarchyを与えた。そして、さざれ石を巌とする過程で、ユダヤ人がスケープゴートとして、排除された。権力が血や地といったarchyと一体化するとき、権力の保存は自らの固有化を伴い、血の純粋化という仕方で他者の排除に必ず向かう。
 
日本は、nationを国-家とする。権力と血が一体化し、権力の正当性が血として語られる危険は常にあるということだ。日本という国では、「日本」というものが国民の家として語られる以上、権力は御家の問題として、血統の問題として語られる危険が常にある。

世界に一つだけの花

ある女から、「比べちゃだめよ」と叱られたことがある。「あの子はこのように出来ているのに、きみは出来ていない、その差は…」とかいう類の私の発言を聞いた人が、誰かと誰かを比べてはいけないし、ほめて伸ばすべきだ、と私を批判してきた。私の感想は、だから偏差値が上がらないのだろうな、というものだった。以前にどこかに書いたこともあったが、もう一度この問題を振り返ろう。結論を言えば、受験とは競争以外の何物でもない。他人と比べられることなく、受験ができるだろうか。受験の成功は、他人を押しのける以外には成立しない。比べられて、その比較に勝つことを、「受かる」というのだ。
 
運動会の徒競走で、子供の心の成長を阻害するから、順位付けをしてはいけない、という退行的で矛盾を極めた文化的環境で君たちは育っている。
 
比べられることを受け入れなければならないし、それを成長の糧にしなければならないだろう。競争で敗れたなら、次こそは勝つ。健全な競争というものがあるとすれば、受験だけであり、世の中にでれば、努力は報われず、嘘つきが這い上がる歪んだ競争しかない。君たちが今、勉強を別にしたとして、競争から解放されているかに思えるとすれば、もちろん家の中にいるからであり、親の庇護を受けているからだ。
 
比較の中で耐え忍び、努力し、相対的な順位をあげようともがくこと。模試の結果を引き受けるとは、そのことだ。数字を信じるとは、競争の憾みや辛みや嫌味に負けず、図太く競争を生き残ることだ。競争をサバイバルすることだ。

心の不可視性

病院で、腹が痛いと言ったとしよう。究極の分析装置で調べたところ、「あなたの腹に痛みの原因はない。」という医者の発言を引き受けたとしても、「あなたが痛みを感じている事実はない」という発言を私たちは許さない。<心>は、不可視であり、どのような科学的観察も、<心>の深部には届かない。あるいは少なくとも私たちは他者の観察を否定できると思っている、もしそれが自分の<心>であるならば。したがって、医者がもし「あなたが痛いというのは嘘だ、なぜなら痛みの原因は存在しないからだ」と言っても、「痛みの因果関係が不明であるとしても、痛みは存在する」、「私が痛むと言ったら、痛むのだ」と言いうるし、それが<心>と私の関係である。私とは<心>の特権的な観察者なのだ。<心>は私にしかわからない、と私たちは思いこんでいるし、そのような信念によって防衛的に振る舞ってもいる。もし<心>が可視的であったならば、電車に乗ることもできないだろう、私たちの心理をばらまくことになるかもしれないのだから。
 
恋愛の場面を考えてみよう。「あの時、私のことを好きだって言ったじゃない」という発言に対して、「いや、あれは嘘だった」と私たちは言える。これは過去の心理的事実の否定である。また嘘と知りながら「心から君のことが好きだ」とも言える。これは現在の心理的事実を偽っている。確かに<心>は可視的にもなるが、それはあくまで主体が望めばであり、<心>は常に氷山のように<私>の内奥に沈んだ部分を残しており、誰かの手をつかむようには、つかみきることはできない。つまり<心>は、やはり不可視であり、その特権的な理解者は、内観的自己としての唯一の<私>なのか?
 
しかしまた、実はこの<心>の内観や反省は<私>にもよく出来ないことがあるほど、<心>の闇は深いものとされる。私たちがもし自分の<心>を十分完全に知っていたり理解できるならば、世界のあやまちの半分以上は消滅するかもしれないが、恐らく<心>の可視性は可能性でなければならないのであって、現実的に実現してはならないのだ。ある精神医学の症例研究で、自分の研究論文の誰かに常に盗まれていると主張する主体の症例があった。思考が剽窃されるのは、<心>としての思考が、言語によってのみ、表現されるからだが、言語とは身体と同じく物理的客観である。隣の部屋の住人は壁を隔てているだけだから、私の部屋の内部の状況を知りうる。私の<心>がもし言語の壁を隔てただけで他者の<心>と隣接しているのならば、私にしか見えないが、言語によって可視化されてしまう私の<心>は、同じように他者に漏れてしまうかもしれないだろう。そうするとこうなる、<心>は究極的に不可視であるか、言語が不完全であるか反省が十全に透徹したものとならないが故に<心>は不可視とならざるを得ない、と。言語が完全なものだというのは、医者の例で言えば、究極の分析装置を認めることになり、そうすると<私>にしか知りえないはずの痛みについて、他者は知る権利を持ち得ることになってしまう。これはおぞましい事態となるだろう。
 
私と他者を隔てるものは何であろうか?<心>以外にないだろう。その<心>が言語によって可視化されるものならば、私と他者の区別は現実的な区別となる。それは部屋の壁や、着ている服、あの人と私までの物理的な距離、曖昧な言葉や沈黙に過ぎないだろう。それらは踏破可能なものであろう。<心>の処遇は、私たちの都合で決まっているようだ。不可視であったり、可視的であったり。パスカルはかつて言った、「人間はこの上なく狂っている」と。
 
自己と他者の区別は、<心>の不可視性に基づいているのではないかと思う。すると、アイデンティティ=自他の差異は不可視であり、客観的実在ではないということになる。恐らくこれが私たちの日常の感覚にもっとも近い考えではないないだろうか。しかし、私たちはまた<心>は、私が望むならばその分だけ可視的になりうるとも考えている。フロイトならばナルシシズムというであろう自我の傲慢さであるが、コミュニケーションにおいては確かに心は可視的にならねばならないだろう。他者に心を込めて丁寧に話をするならば、私たちの<心>は他者にとって可視的なものとなる、そのように信じて私たちがコミュニケーションにのぞんでいるということもまた確かだ。
 
逆説的だが、心の不可視性以外に他者と自己を区別するものはないが、一方で心が可視的となりうるという可能性を元手にコミュニケーションはなされるしかない。

2012/3/14 国家斉唱

大阪の府立和泉高校で、3/2の卒業式での国家斉唱の際に、「中原徹校長が教頭らに指示して、約60人の教職員が国歌斉唱時に起立しているかだけでなく、歌っているかについて口の動きを確認した」らしい。
 
校長と教頭の「確認」の結果、「口が動いていなかった」3人の内、実際に歌っていなかったことを認めた1人は懲戒処罰されることになるだろう。大阪府では2月末までにあった卒業式で「起立しなかった」教師17人が戒告となっているようだ。
 
教師たちがこうした不斉唱、不起立によって処分された例はいくつもある、そして今回も恐らく処分される、「職務命令違反」である。職場の上長(この場合校長や教育委員会)の職務命令に背く行為であるが故に、彼らは処罰されている。国歌の起立・斉唱は、思想の自由を保証する憲法19条には反しない、既にそういう最高裁による判決も出ている。職場の命令・規律違反であるかどうかで戒告ということだ。
 
君が代』の「君」とは天皇のことである。
天皇は(大日本帝国を統治していた王であったが)現在は日本という国家の象徴である。天皇を敬う歌を歌うことで、②国家を愛する気持ちを養成する。というのが『君が代』を歌えという人たちの大筋の考えであろう。石原慎太郎は『君が代』でなくともよい、代わりの国歌を歌えばいいと考えているらしい。この場合には①の論点は落ちて、②のナショナリズム国家主義)を強化・養成するというのが主眼となる。
 
私の考えを述べておく。国家は私の家ではない。したがって私が自分の親や家族や友人を愛するのと同じように、天皇や国家を愛すべき理由はない。私は京都という街が好きだ。渋谷や下北沢、御茶ノ水、沖縄が好きなのと同じだ。京都という現象は他国にはない独特の現象で、その意味で日本的かもしれないが、日本とは地理的な総体を呼ぶさいの便宜的な総称的な呼称以上のものではない。国家は私とは何の内的関係もない。したがって国家を愛してはいないのは、国家など私の精神生活にとって無であるから。私が平和に自由に友愛を発揮したり享受したりするのに、国家は関係しない。だから国家への愛も、憎しみもない。だから国を国家と呼ぶのも嫌である。
 
だから、国家への忠誠や尊重がなければ、精神・物質両面で発展しないという理屈がまったく理解できない。私はある人物と今日、大学院での数学の勉強について話し合った。彼が数学を一生懸命勉強するかどうかということと国家は関係がないと私は思っている。私も英語の勉強をしたり、しなかったりする。もっと勉強しなくちゃなと毎日思う。しかし国家のことは全く考えないし、国家主義を持つと勉強する意欲が湧くとも思わない。国家などというものは、ビジネスライクに考え、企業のようなものだと思えばいい。そこで働く人がいて、それが政治家で、その企業が発行する株を買っているだけで、別の株を買いたいなら、他国にいけばいい。国は金を徴収する。私は金を払う。その代わりに私は保障を受ける。以上だ。
 
国家への忠誠を誓えというのは、支配者になりたがる人とそれに追従したい人の理屈としか、考えられない。従って私にとって国民意識を涵養する必要がそもそもないので、国旗掲揚する意味も、国歌を斉唱する意味もない。無意味なものを強制されるのはもちろん迷惑である。